自分の意識が世界の意識と交わるとき

バイト帰りに地下鉄に揺られながら、吉本ばななの小説『アムリタ』を読んでいた。
主人公の朔美が階段から落ちて頭を打つシーン。この事故で、朔美は記憶を失ってしまうのだが……。
その日付は、9月23日。

はっ!と思い、腕時計のカレンダーを見る。(その切迫感は、日曜の夜の乗客には似つかわしくないものだったろう)

今日は9月23日だ。


これを奇跡だとか今日読む運命だったとか何かを暗示してるだとか、はたまた単なる偶然にすぎないだとか、言ってしまうのは簡単なことだ。

でも、案外こうした偶然の(意味のある?)一致は、世界中にあふれているとはいえないだろうか?
思い返してみれば、こういう経験は今までに何度もしているのだ。ふと頭に浮かんだ言葉が、その直後にたまたまついていたテレビとか読んでいた本とか乗り合わせた乗客とかから飛び出して、ぎょっとしてしまう。その言葉を今具体的には思い出せないのは、同じようなことが何度もあったからだろう。
これは別に僕に限ったことではなく、誰にでもあることだと思う。

そうやって考えてみると、この手の一致について「ある」のか「ない」のかといったことはもはや問題ではなくて、それに「気づいている」か否かの違いしかないのではないかと思えてくる。

ここである人は、「シンクロニシティ(共時性)」という言葉を用いて説明を試みるのだろう。
それはそうだろう、これはまさしくシンクロニシティの典型例なのだから。
でも、いくら言葉を尽くしてシンクロニシティの科学的根拠(あるいは無根拠)を説明してみせたところで、何もわかったことにはならない。その点では、「単なる偶然だよ」と片付けてしまうことと大差ない。

だってそれは、ただただ「ある」んだから。

この一致の何たるかなんて解き明かせなくてもいいから、なるべく多く「気づける」自分でいたいと思う。
[PR]

by match-ken | 2007-09-23 23:15 | 雑感  

<< 非常識な常識 今月の本代を考えるのも恐ろしい >>